こんにちは、ゆめです。

誰がなんと言おうと、自分が選んだならそれでいい

そう思えるようになりたいと思っている方へ

私と一緒に、自分にとっての選ぶ基準を探しませんか

心の声と頭の声

私は、心が壊れて社会から離れざるを得なくなって2年、人生で初めて自分の内側に目が向くようになりました。
おおげさに聞こえるかもしれませんが、私にとってはそれくらいしてこなかったことでした。

自分の〈内側〉と〈外側〉という表現を私はよくするのですが、別の言い方をすると〈心の声〉と〈頭の声〉です。

自分の内側=心の声
自分の外側=頭の声

まず簡単な例で説明すると、お湯を沸かしているやかんに触ってしまったとき、反射的に「あつっっっ!!」って声が出ますよね。そしてそのあとで、「冷やさなきゃ!」とか「熱かった~」と言うのではないでしょうか。
もうお分かりかもしれませんが、反射的に発した声が〈心の声〉、そのあとに発した声が〈頭の声〉です。

ここでの声とは、他者に聞こえるように発するというより、自分の中で浮かんでくる感覚を意味します。

他にも具体例をあげると、心の声は「お腹すいた~」「眠いな~」といった動物的な欲求だったり、「ぶっちゃけこの人きらいだわ~」とか「仕事行くのいやだな~」といった、感じたままの感覚。

一方頭の声は、「最近食べ過ぎているからご飯は少なめにしないと…」とか「今昼寝したら夜眠れなくなるかも」とか、「きらいなんて思うのは良くない」「行かなかったら他の人に迷惑をかけるし、お金をもらっているのだから行かなきゃ」といった、常識や価値観に基づいて生まれる感覚のことを指します。

一見、頭の声は正しそうに思えるかもしれません。確かに社会の仕組みの中では、頭の声は不可欠です。

しかし、私が社会から離れて初めて気づけたことこそが、自分は心の声を聴いていなかったということです。

具体的には、「あれもこれもわからん!誰か教えて~!」「これで合ってるのかな、不安…」「先輩方はみんな優しいけれど、大変そうだから何度も質問するのは気が引ける…」といった〈心の声〉がありながら、「まずは教えてもらったことから自分で考えてやらないと」「不安とか言ってる場合じゃない!手を動かさないと」「報連相はちゃんとしなきゃ!でも忙しそうだから簡潔にわかりやすく…」と、一般的にそうすべきと言われているような心がけや考え方に染まった〈頭の声〉でいっぱいになっていました。

心の声を聴けるようになった

そんな私が心の声を聴けるようになったのはなぜか?
一言でいえば、社会から離れたから(私にとっては不可抗力のようなものだったけれど、それくらい強引に引き離されない限り、私は変われなかったのだと思う)。

社会から離れたことによる一番の収穫は、自分がいかに常識や世間の価値観でものを考えていたかを知れたこと。

新社会人向けのビジネスマナーが書かれている本や、テレビやネットで言われている理想の新入社員像のようなものが自分の中に染み込み、ちょっとした思考や意思決定にまで影響を与えていた。

自分はどう思うか。たったそれだけの、いたってシンプルなことがわからなくなっていた。わからない状態が当たり前になっていた。

それを自覚できてからは、「世間一般ではそうだとしても、自分はどうしたい?」「社会が求める基準はそれだとしても、今の自分にできるのはどこまで?」と、少しずつではあるが自分の内側に目を向けられるようになった。それを繰り返すうち、今まで絶対的な基準だと思っていたものはあくまで社会の中での基準であり、そこから離れた自分にとっては、それがすべてではないと思えてきた。

ただ、私のようにこんなにも社会から離れて過ごせる機会はそう簡単に訪れないと思うし、不可抗力的に社会から離れる経験は、しないで済むならその方がいいと思う。

どうする?

じゃあどうすれば、社会と適度に関わりつつ、心の声を聴けるようになるのか。

結論からいうと、私と対話する、です。

やっぱり、社会と密接に関わっている限り世間一般の価値観・社会で求められる基準に常にさらされることになります。そんな中、ひとりで自分の内に目を向け、長年染み込んできた価値観を疑いだすというのは、そう簡単なことではないと思います(ひとりでできるならすでに自分の心の声を聴けているはず)。

社会から離れたと言っている私ですら、生きている限りどうしたって社会の一員であり、接点があり、守られている。今生活できているのは、親が淡々と社会の中での役割を担ってきてくれたからにほかならない。

私もずっとひとりで自分の内側と向き合っていたわけではなく、親や友人と話すことで少しずつできるようになっていった。

感謝を述べたい人は何人もいるが、各々仕事があり生活があり、いつでも